あとがき

やはり、彼女は先に来ていた。

古風な内装とは裏腹に、賑やかなラップミュージックが響く店内。
奥では、小太りでヒゲ面の店長が忙しそうに料理を作っている。
両耳に大きなリングが光る黒髪ロングのお姉さんは、お酒をつくり、
その隣ではショートカットの女の子が一生懸命注文を反芻している。
この2人が姉妹だということは、あの日の結婚式で知った。

「夏海」

声をかけてきた切れ長な瞳に、
私はゆっくり、「瑛里華、ひさしぶり」と返した。

あれから1年に1回。
お盆の帰省時期を狙って、この居酒屋「えぞっ子」に集まるのが恒例になった。
嫌だ、めんどくせーと悪態をつきながらも、結局は毎年いつものメンバーが集まる。

彼女が務める会社には、
次から次へと合コンを企画する3人組の先輩がいるらしく
連日、彼女も一緒になって夜の繁華街で宴を楽しんでいるのだと言う。
しかし来る男性がどれもこれも癖の強過ぎた男で、ハズレばかりだと愚痴る。
「いい男なんてなかなかいないものよ」
彼女はいつもの低い声で、淡々と語り、スマホをしまった。

「どう?子育ては大変?」

もうすぐ2歳になる愛音(あいね)は、今頃必死で浩二くんが見てくれているのだろう。
カレーの肉に鶏肉を使い始めて以来、あんなに鬱陶しかったお隣の草薙さんはヒートダウンし、
「小林さんも普通の主婦なんですね。今までごめんなさい」とすっかり打ち解け、今やすっかり頼れる先輩ママになった。
草薙さんにお下がりでもらった、チャイルドシートは、ナンバーが「・723」のカレー色のプリウスの後部座席にしっかり装着されている。
そして、愛音が、「マジコマージー」とうっすら口走った時の浩二くんの顔は、なんだかカレーみたいな顔だった。

やがて、店のドアが開き、「あの美人」がやってきた。

「あー!笹良さん、いらっしゃいませー!」

記憶が確かなら、あの日、彼女はショートカットの女の子に「美人さんいらっしゃいませー」と迎えられたと思う。
どうやら彼女は、名前まで覚えられるくらいにすっかりこの店の常連となったらしい。

勤めているパチンコ屋『TAIYO』で1年に数回、想定外の連チャンが多発する「国松の呪いデー」と呼ばれる日が存在し、まさに今日がその日だったというが、
「美人」は疲れを感じさせず、嬉しそうな顔で彼氏の話を始めた。

彼女の職場にいる、大のカラオケ好きの女上司に連れられて行ったカラオケ店で1人の年下の男と知り合ったという。

「年下の深みにはまっちゃいないよ」と、そのカラオケ好きの女上司に促され、
現在、2人揃って年下と交際していると聞いてびっくりした。
あの高貴な美人が、年下と交際するとは思ってもいなかったからだ。

どうやら、数年前まで年上のお金持ちに入れ込んでいたが、
今は全く年上にもお金にも興味がないと言う。
「ありがとうございました」と別れを告げた数時間後に、そのお金持ちは、何度もしつこく電話をかけてきて、あまりの女々しさに一気に冷めたと、美人は嬉しそうに語った。

ドアが開く音がする。

「あれ!監督!いらっしゃいませ!」

メガネからコンタクトに変え、緩やかなパーマをかけた「監督」は、今や熱海が誇る映画監督だ。
大人が見てもぎょっとするようなアダルティーな映画「セカンドバージン」の次に撮った「トマトジュース」という映画は自主映画ながらも大ヒットした。
私の住む浜松でも映画は公開され、舞台挨拶も開催された。

招待チケットをもらった私の席はまさかの最前列の真ん中で、
何度も彼女と目があった。
と、思っていた。
でも、その視線は私の隣に向けられていたことに少しして気がついた。
純白のワンピースに、目深に被った帽子。整わない呼吸。ひどく前屈で小刻みに震える身体。
その女性に、舞台上から監督はこう言った。おそらく、その女性「だけ」にこう言った。

「何があっても、絶対に、諦めるな」

その女性がか細い声で嬉しそうに「凪ちゃん」とつぶやいたのが、印象的だった。
上映後、監督に挨拶をすませた私は近くの喫茶店に立ち寄った。
気だるい暑さを避けるようにトマトジュースを注文すると、近くの席でもトマトジュースを注文する声が聞こえた。

振り返ると、あの女性だった。
嬉しそうにトマトジュースを待つ彼女は、なんだか夏休みを謳歌する小学生のようだった。

そんな監督の次回作は、
いまや国民的アイドルユニット「仁Say!! ナメテルズ」主演の映画だと言う。
「セカンドバージン」以来のタッグにネット上では連日インタビューが踊り、
プロデュースを手掛けた山根という男は、彼女の才能をいち早く見出したという瀬渡という監督と一緒に地上波のテレビにも出演し、
「日本映画界の未来を背負う逸材。間違いなく売れると思っていました」と熱弁していた。

とにかく、「監督」は、思いもよらぬ形で成功をおさめた。

「売れてからが大変なんだよ、この世界は」

と、カバンから目薬を取り出して左から右へ順に滴を垂らす監督の姓は、
最近、「神田」から「平井」になった。

長年同棲した年下のサラリーマンからのプロポーズを受け、いよいよ映画監督と妻の2足のわらじを履くことを決意したという。
監督の左手の薬指には、紛れもなく、きちんと輝く光があった。

「とりあえず、生4つでいい?」

ショートカットの女の子が、大きな声で注文を厨房に伝える。
奥では小太りのヒゲ面店長が、黒髪ロングのお姉さんにフライパンで頭を叩かれている。
やはり、いつ来てもこの店は居心地がいい。

賑やかなラップミュージックが曲と曲の間を知らせる静寂を鳴らす頃。
店の外から、夏の海が奏でる声が聞こえた。
寄せては返すその愛しい音を、私は一生大事にしようと決めた。

この街でしか抱きしめることのできない夜を、
私は、結局、心底大切にしているのだ。

いつか、「ろくでもねー」と語った、この熱海という街を、私はなんだかんだ大好きでいる。
いつか、「大嫌い」と罵った、目の前の彼女たちを、私はなんだかんだ嫌いになれないでいるように。

「じゃあ、乾杯」
あの日、二度と交わることがないと思っていた4つのグラスが、
熱海の夜に甲高く響く。
喉を通る爽快なビターは、青春の苦味を超えて、すっかり日常のツールとなった。
それでも、この街に帰ってくれば、確実に「あの頃」は蘇る。
共に青春を過ごした仲というのは、やっぱりそういうもんだ。

24時閉店のこの店を出たら、どこへ行こうか。
135号線を突っ切って、やっぱり、サンビーチかな。

なんだかんだの、私たちだ、ね。

夜を使いはたして、朝まで、だね。

うん、

と、誰かが言った。

私たちは、声をあげて、笑った。

作・勝又悠